【エンタメの世界はインナーコミュニケーションのヒントであふれている】本人不在のまま、組織は誰を担ぐのか?

社内報ノウハウ

【エンタメの世界はインナーコミュニケーションのヒントであふれている】本人不在のまま、組織は誰を担ぐのか?

【エンタメの世界はインナーコミュニケーションのヒントであふれている】本人不在のまま、組織は誰を担ぐのか?

『女王蜂』が描く、担がれる孤独と、見過ごされた沈黙

今年(2026年8月)、岸恵子さんの訃報が届きました。93歳。日本映画史にその名を刻んだ大女優の一人であり、多くの方にとっては『君の名は』のヒロインとして、あるいはフランスとの越境的なキャリアの先駆者として記憶されているかもしれません。

しかし筆者にとって岸恵子さんといえば、まっさきに思い浮かぶのは市川崑監督の「金田一耕助シリーズ」での姿です。

1977年の『悪魔の手毬唄』では、封じてきた過去の罪ごと凶行に走る母親・青池リカを演じ、翌1978年の『女王蜂』では一転、主人公の少女を見守る家庭教師・神尾秀子を演じました。

同じ監督、同じ探偵、同じ横溝正史の世界観でありながら、まったく異なる立ち位置を、一年の間隔で演じ分けている。この振れ幅こそが、彼女の女優としての凄みだったのだろうと思います。

追悼を兼ねて振り返るなら『女王蜂(映画版)』を選びたいのですが、この作品、実はインナーコミュニケーションの、ある根深い構造をそのまま映し出しています。

本人不在のまま、決まっていくこと

組織では、本人がまだ何も成し遂げていないうちから、周囲が勝手に役割を押し付けてしまうことがあります。

社内で急に注目を集め始めた若手は「次期エース」と呼ばれ、後継者候補に挙げられた社員は、本人の意向を確認される前にすでに社内で”内定”扱いされ、炎上対応の矢面に立たされた広報担当者は、いつのまにか会社の”顔”にされています。

役割を押し付けられた瞬間から、その人はもう「一人の人間」としては扱われなくなります。

『女王蜂』の智子は、この構造をそのまま体現する少女です。伊豆天城の山里「月琴の里」で育った彼女は、19歳の誕生日を機に、京都で暮らす父・大道寺銀造のもとへ引き取られることになるのですが、その直前、こんな警告状が届きます。「智子に群がる男の生命は脅かされるであろう。彼女は女王蜂である」。

智子自身は、物語の中で驚くほど何もしていません。

誰かを陥れることも、誰かを誘惑することもなく、ただ月琴の里から京都へ引き取られようとしていただけです。それでも警告状は彼女を「女王蜂」と名指しし、彼女が動く前から、彼女をめぐって男たちが次々と命を落としていきます。

誰もが智子に何かを期待し、あるいは何かを恐れ、そして彼女自身の言葉に耳を傾ける者は、ほとんどいません。

女王蜂とは、本来、群れの頂点に君臨する存在のはずです。しかし智子は、群れの中心にいながら、誰よりも独りだったのです。

もし智子の周囲に、彼女自身の言葉を聞く場——たとえば「京都に行くことについて、あなたはどう思っているのか」と直接尋ねる誰かがいたなら、物語はまったく違う形になっていたかもしれません。

後継者候補に祭り上げる前に、”顔”にする前に、まず本人にインタビューする。象徴化の暴走の多くは、この一手間で止められます。もっとも、聞くだけ聞いて、答えを聞き流すのでは意味がありませんが。

見えなくなった構造は、外の目にしか見えない

長くその組織にいる人間ほど「わざわざ触れるまでもない」と思い込んでいることの中に、実は誰も言語化していない暗黙のルールが潜んでいます。

社内報の編集部や、外部から招かれたコンサルタントが重宝されるのは、その空気に染まっていないからこそ拾える違和感があるからです。

金田一耕助は、この「部外者だから聞ける」を体現する存在です。彼は月琴の里の人間関係も、十九年前の因縁も、何ひとつ知らないまま、智子の護衛役としてこの土地に足を踏み入れます。完全な部外者です。

けれど、この「何も知らない」という立場こそが、金田一の武器になります。

大道寺家の内部の人間には聞くのを憚られるような過去のいざこざも、あるいは旅役者の一座や駐在の巡査といった、事件の中心から離れた人々の記憶の断片も、彼は分け隔てなく尋ねて回ります。

一族の内側にいる人間には見えなくなっている構造を、外から来た人間だからこそ、一つひとつ丁寧に聞き取り、組み立て直していきます。

金田一が最終的に事件の真相にたどり着けるのは、名推理というより、この「聞き続ける根気」によるところが大きいのかもしれません。

組織にとっての外部の目も、一度呼んで終わりでは意味がありません。継続的に、聞き続けてもらう仕組みがあってこそ、初めて機能します。

“扱いやすさ”という評価の罠

※ここから、物語の核心(犯人と動機)に触れます。

組織では、不満を口にしない人、波風を立てない人ほど「扱いやすい」「できた人」として評価されがちです。

しかしその”扱いやすさ”の正体は、発言する機会も、発言していい場も、そもそも与えられていなかっただけかもしれません。周囲から見える姿と、本人が実際に抱えているものとの間には、思いのほか大きな溝があります。

『女王蜂』の真犯人は、智子の父、大道寺銀造でした。十九年前、青春時代に愛した女性を親友に奪われ、さらにその親友の一族への積年の恨みも重なった末の、長い長い恨みと独占欲。彼はその感情を、誰にも打ち明けませんでした。

十九年間、ただ黙って抱え続け、最後は警告状という、迂遠で儀式めいた手段でしか、自分の想いを表明できなかったのです。おそらく周囲の目には、彼はただ「物静かで、誠実な人」としか映っていなかったでしょう。

彼に足りなかったのは、誰かに止めてもらうことではなく、自分の言葉で語る場そのものだったのかもしれません。

社内報が社員インタビューや座談会という形で担っているのは、まさにこの役割です。本人の内面は、外から見ているだけでは決して伝わりません。

語ってもらい、聞き取り、言葉にして返す——その積み重ねがなければ、周囲はいつまでも、外面だけでその人を判断し続けることになります。

担がれているのは、誰か?

智子は担がれた象徴として孤独を強いられ、銀造は誰にも打ち明けられない沈黙を十九年溜め込んだ末に、取り返しのつかない形でそれを爆発させました。

この二人に共通しているのは、どちらも「自分の言葉で、自分の状況を語る機会」を、最後まで与えられなかったという点です。

そして金田一は、そのどちらにも先入観なく耳を傾けられる、唯一の部外者でした。

この物語の裏側にも、十九年近く秘密を抱え続けたもう一人の人物がいます。智子と銀造、双方の秘密を知りながら、誰にも打ち明けなかった神尾秀子——奇しくも、彼女を演じたのが岸恵子さんでした。

組織の中にも、きっと同じ構造があります。本人の意志と関係なく担がれている「智子」、”扱いやすさ”の名のもとに溜め込まれている「銀造」の沈黙。

そのどちらも、当事者同士では気づかれないまま放置されがちです。だからこそ、時には金田一のような部外者の目と耳が必要になります。

あなたの組織で、その役割を担っているのは、いったい誰でしょうか。

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