人の振り見て我がDX進めろ?
何かに病んでかかっているわけではないのだが、某大学付属の大病院で1年に一度「経過観察」として検査を受けている。初めて診てもらったのが、コロナ禍真っ只中の2021年の秋。ほぼ病院のお世話になることがないわたくし、病院ネタはほぼアップデイトできていないので今や当然なのかも知れないが、あらゆることがデジタル化され、『大病院イコール時間が掛かる』の図式が半日で見事に覆されたのである。
初診は問診、診察カードの発行があるのでさすがにここは人が関与するのだが、再診においては受付、診察、会計、支払が全てデジタル化され、それゆえに全てがシームレスに繋がって、時間がほとんど掛からないのである。
システムや機械で代替できるところは代替され、人にしかできない医療の部分はしっかりと人の手が残っているという、ちゃんとメリハリが利き、ビジネスなり経済原理も働いているようで感心させられた。
でも本当は、スムースなのはコロナ禍で患者数が少ないから?という見立てもしたのだが、今年改めて行ってみると、スピードはこれまで通り。患者数が通常に戻った今も、しっかりとデジタルが機能していて、新しい病院の姿を実感したのだ。
しかも、この1年でアプリも導入されたようで、診察カード代わりのQRやクレジットカードへのヒモ付けなどで、診察後は会計と支払いが不要でそのまま帰れるという、さらに時短が図れて利便性が上がっていたのだ。
病院DX、恐るべし。
こうした日常でDXによる利便を実体験すると、行政サービスなどは一体どうなっているの?と嘆きたくなるのだが、それはまた別の機会として、まずは我がこととして自分たちの仕事や会社においても改善の余地は多いなと感じるものである。メリハリあるDX、つまり人手とデジタルの最適な使い分けは、労働集約型の当社のような業態に本当は一番有効なのかも知れず、もはや「人がする仕事だから」を言い訳にしてはならないのだろう。
1000キロのグランドツーリング
仕事ではあるが、ここのところ最新のEVに乗る機会が増えている。先月も最新ドイツ製高級EVを用いた雑誌のタイアップ企画に立ち会ったのだが、そのEVの一番のセールスポイントは、航続距離。EVといえば当然動力や操作のすべてを電気で賄うわけだが、搭載する電池容量の大きさによって満充電で走れる距離も大きく変わってくるのだ。
例えば、20kwの電池であれば180キロ、60kwの電池であれば400キロといった具合で、各社が公表する航続距離は必ずしも一様ではないものの、容量と距離は比例して増えていく。
前置きが長くなったが今回のドイツ製最新EVは、搭載電池の容量が100kwとこれまでで最大の容量を誇り、航続距離も700キロに届かんというモデル。そこでその訴求ポイントを実証しようというのが、東京から富山までの約500キロのグランドツーリングという企画である。
航続距離はともかく、この500キロにおよぶロングドライブで何が一番印象的だったかと言えば、疲労の無さ、である。某社謹製の上位モデルだから、自動運転もとい優れた運転支援システムがあるから、などなど理由はいくつもあるだろうし、それは確かにそうだろう。
でも改めて感じたのは「音」だ。そう、ほぼ音がしないのだ。
正確には音の記憶が無いのだ。当たり前だが内燃機関特有の唸りも、マフラーから出る排気音も無い。聞こえてくるのは微かに聞こえる車体の風切り音とステレオからの音楽だけ。音による疲労は何となく想像に難くないと思うのだが、何時間もそれなりの音にさらされるクルマのロングドライブにおいて、音から解放されることがこれほどの疲労軽減につながるのだと、身を以て実感させられた。
時間にして4時間少し。トイレで停まった以外はいわゆる休憩無しのこの時間は、快適の一言。体感としては、え?もう富山?が本当のところだ。自身、4年ほど前に金沢までクルマで行った経験があるが、富山と金沢の違いはあるとはいえ、疲労の大きさは比べものにならず、これは誇張なく、充電さえ考えなければ片道500キロくらいであれば日帰りも十分可能なクルマだ。
最新の高級EVは、必要な時に必要なだけスピードが出て、運転支援システムで巡行でき、その上静かで、控えめに言って「高速道路最強」じゃないかと往復1000キロにおよぶグランドツーリングを通じて実感した。
もっとも、大容量電池であっても短時間で充電できる「急速充電器」の必要性や、そもそも充電スポットの数の拡充など、メーカー各社だけでない行政レベルで取り組むべきインフラ整備に大きな課題があるのは事実だ。
が、2日間に亘ってEVと付き合ったが、内燃機関ノスタルジーだけじゃ分からないこと、そして旅の手段としてこれも選択の1つだ、ということ。新しいことは、まずは体験することが肝要だ。
もっとも、この経験を富山出身者に話したところ、「新幹線なら2時間ちょっとで富山だよ」と身も蓋もないことを言われ、その速さに驚くとともにまず経験すべきは北陸新幹線で北陸に行くことか?というオチもついた。
果たしてEVは新たな旅の選択となり得るのか、いろいろと考えさせられた経験であった。
2040年の衝撃
とある勉強会に出た際、講師から教えてもらったレポートをダウンロードして読んでみた。それは、2040年の日本における労働環境を中心とした国内の社会状況を予測したレポート、そこに記載されていた「予測」が、現実を知らされたという意味で、なかなかに衝撃的であった。
非常に乱暴に一言でまとめるなら、労働力が日に日に減っていく日本において個人の働き方やその意識だけでなく、ルールを整備する側(行政や企業側)の思考も大きく変えていかないと、いろんなものが立ち行かなくなるというモノ。人口動態をベースとして予測をすれば、2040年時点で社会における労働需給ギャップは1100万人を超えるというもので、これだけの労働力(働き手のこと)が必要だ、と言っている社会において1100万人分の供給が不足しているということ。これを単純計算すると毎年島根県の人口(約66万人)くらいの労働力が減っているのが実態で、実際に数字を置かれてみると深刻さが理解できる。
現在当たり前と思っている社会生活維持のための労働力さえ不足しかねず、すなわちモノの配送、ゴミの収集、災害からの復旧、介護サービス、警察による治安維持などを指す、インフラと呼ばれるような仕事においても労働力の不足は明らかだと言う。
もちろん、根っこにあるのは少子高齢化に尽きるのだろうし、それは何十年も前から分かっていたにもかかわらず、課題に向き合わず先送りしてきたツケであることは言うまでもない。何せ17年後である。
17年後に急に1000万人を超える労働力が足りなくなるわけではないが、それにしてもすぐ過ぎやしないか17年なんて、とちょっと考えさせられた。レポートではこうした実情を知ったうえでの解決提言もしていて、何かできることは無いかと感じた。
その1つが、「徹底した機械化と自動化」である。自分たちの仕事に置き換えたとき、何が自動化できるだろう?ということを真剣に考えなければならないのだろう。私たちの仕事は労働集約型ゆえ、人による労働力は何物にも代えられない、と凝り固まってはいられないのである。
100%機械化、自動化は無理だとしても、意識しなければならないテーマだろう。もう1つが、社会に対して自分の行動や思考が何らか機能・作用しているような活動というもの。分かりにくいのだが例えば、自分の健康維持のためにランニングやウォーキングをしている人が多いが、ランをしながら地域を見守るパトロールの取り組みに替えるといった取り組みは、趣味が社会の何かに作用(貢献や機能とも)しているわけで、こうした共生や互酬が労働力不足を解消する1つになり得るという策だ。趣味と実益を兼ねて、ではないが、自分の楽しみのための活動が実は社会の何かに役立っている、といったことは意外にあるのかも知れない。
ここに報酬が要るのは確かだが、報酬はなにも経済的なそれだけでなく、心理報酬や社会的報酬などもあるようで、何となく社会主義っぽくもあるけど、労働力が決定的に足りない現実ではやむを得ないのかも知れない。
15年後の自分は72歳、まあこれもビックリではあるが、その年齢で社会生活を維持することさえままならないのは、さすがに忍びないと感じる。ルールを作る側としての企業の人間として、時短やリモートワークといったことではない、構造的な働き方や労働の再定義が必要だと、このレポートで思わされたのだ。
さて、何から手をつけるべきなのだろうか??
シン・マイコミュニティは突然に!
最近同年代の仕事仲間や友人と話しをしていると、「仕事(会社)以外のコミュニティを持つことについて」が話題に上ることがある。皆一様に、仕事引退後のことを考えているわけでも、仕事に病んでいるわけでもないが、言葉の端々にどこかに、おぼろげだけどあると良いなと思っていた節があると感じ取れる。それは自分にとってもそうで、何かあるかな?と考えていたところに、意外に身近でそして意表を突く格好で現れたので書こうと思うのだ。
趣味と言えるか分からないが、休みに何をしているかと問われれば、ジム通いとちょっと旧いクルマにハマる、くらいだろう。中でも、ジムは通い始めてかれこれ7年8年。当然だが目標や、使命があるわけではなく、ぼんやりとした始まりだったが、やり始めてみれば、自ら決めたルーティンを自分のために完遂できる自分がいることに気付いたり、トレーニングとはフィジカルのそれというよりメンタルの鍛錬だ!と妙に納得したりなど、新しい自分発見も含め、よもやここまで続くとは想像もしなかった。
ただジムに通ってからここまでを振り返ってみると、一人黙々とルーティンに勤しむほかは、会員さんと接点ができたわけでも、誰かと会話するわけでもなく、もちろんこれに不満があったわけではないが、淡々とした毎度同じような週末の繰り返しだったと言える。
飽きずによく続くものだ。ところがそんないつもの3月下旬、同じスタジオプログラムを受けている一人に声を掛けられたことをきっかけに、状況が一変した。声を掛けられたも何も、「どうもこんちわ~」の文字通りの一言だったが、以降、まるで確変に入ったかのように次々といろんな会員さんに話し掛けられるようになり、名前を知り、言葉を交わすようになり、果てはLINEグループに誘われ、飲み会にも呼ばれと、過去7年8年の一人黙々状態は何だったの?と思うほどの変わりよう。
あれよあれよとジムにマイコミュニティが生まれたのだ。どちらかと言えば、こういう仕事以外の人の集まりなどは面倒で避けて通ってきた方なのだが、お誘いがあったとは言え、すんなり誘いを受け入れた自分の変化に戸惑いつつ、経験しないと分からないことはまだあるものだと実感もしている。
性別も、年齢も、仕事も、価値観もバラバラだけど、強制もしなければされもしない気楽さや、消費者の肌感覚のようなものを直接見聞きできたり(やや仕事っぽいけど)と、普段の仕事生活だけでは得られない発見も多い。
もっとも、こうしたコミュニティなど無くてもジムライフは送れる。そんなものはむしろ邪魔だと感じる向きもあれば、そして私自身もそうだったが、コミュニティが無くてもジムライフなど継続はできるだろう。
ただ、無いと困るものではない一方で、あると楽しさが広がるのは確かで、それが役立とうが立たなかろうが関係なく、人とのコミュニケーションは悪くないと感じることができる。この3年あまりですっかり人とのコミュニケーションが希薄になってしまった感があるが、リアルな接点は、リアルならではの良さで、人は結局こういうものが必要なのだと思わされるのだ。
では結局のところ、自分は何らかのコミュニティを欲していたのか?という点だが、それはイエスだ。それは、ジム通いを続ける理由などではなく、自分の日常で接点がないであろう人たちと知り合い、話し、知らないを知ることができる、普段とは違うコミュニケーション体験ができるという意味で、イエスなのだ。
少し面倒くさいと思えることも、実際にやってみると違う景色が見えるかも知れず、皆さんも仕事(会社)以外のコミュニティに、機会があればあえて飛び込んでみては、とおススメする次第だ。
実験的な試み
このところ目にしない日や、聞くことのない日は無いとも言える生成AIの存在は、私たちのようなコンテンツを産み出すような業界にとって当然他人事ではない。生成AIの出現によって大きな脅威を感じる一方で、新しい技術から逃げずに共存することが、今後の発展につながると考えている。むしろ、そのAIが生成するコンテンツのクオリティを見れば、この大きなうねりに抵抗することなどできないのかも、というのが本当かも知れない。
生成AIによって自動生成されたコンテンツには、人間が生み出すことが難しいほどの効率性や多様性がある。その反面、人間が持つ創造性や感性といった要素を完全に取り入れることはできないとも言える。つまり、AIができることと人間ができることは異なるということ。この理解をベースにすれば、AIの能力を最大限に活用し、それを人間が補完することで、より高度なコンテンツをアウトプットできる、とも言えまいか。こうして書いていて何だが、AIが主で人間が従という関係に違和感を覚えなくもないのだが、実際そうなのかも知れない。
生成AIの裏側で動いているロジック開発に携わる人や、ブロックチェーンやNFTといったweb3.0+テック系の仕事に関与する方々と最近会って話しをする機会があり、正直言えば話しの3割くらいはついていけなかったものの、社会はきっとこんな風に見えないところで変革が始まっていて、現象として見える時点ではすでに違うフェイズや時代に移行している、ということを目の当たりにしたように感じ、大きな刺激を受けた。当然ながら現状、生成AIと自分たちの仕事がどう融合し、それを使いこなせるか否かの答えは無い。それでも歴史が証明する通り、過去の実績やこれまでの成功体験にしがみついたまま生き残ってきた企業や業界は無いのも事実だ。容易ではないが、来るべき将来に向き合い新しい技術を躊躇なく取り入れていく気概こそ、こうした時代の転換期には求められると、自らの戒めにしたい。
参考までに今回のブログは、タイトルの通り実は自分なりの「呪文」をAIに投下して生成された文章をベースに加筆修正するという、実験的な試みをしたことを記しておく。ブログ全体の構成そのものはいじる必要がないと感じたため加筆修正に留めたが、自ら手を入れたボリュームはザっと6割くらい。コンテンツの質は「呪文」次第であろうし、人の温度感や個人の嗜好といったものはまだ十分ではないかもと感じた反面、いわゆる有料版で個人の書きぶりや価値を学習させ、適切な呪文を入れられれば結果どうか?と想像もしてみた。たぶん、それなりの感性をもって生成されるだろうと思うと、ヤバいの一言だ。
新しいVIに込めた想い
今年の4月1日、当社は35周年を迎えた。35年前に丸紅株式会社が100%出資して設立された後、2006年に丸紅からのMBO実施を経て今年を迎えるわけだが、世に言われる企業生存率などの話しは横に置いたとして、35年に亘って会社が継続してきたことは喜ばしいし何より誇らしい。またこうして35周年を迎えられたのは多くの先達の高い意識や奮闘無しには語ることはできず、ここに敬意と感謝を表することを忘れてはならないと思う。ありがとうございました。さらに長寿でかつ、いつまでも若々しいマインドの会社として発展させ続けていくことが、それに対するご恩返しだと改めて感じる。
周年を機に当社のブランド・フィロソフィを明文化し、当社にとって初めてのコーポレート・スローガンを制定するとともに、VI(visual identity)も刷新した。いわば、当社のブランディングだ。これまでのアセットは大事にしつつ、新しい「りえぞん」を目指すという、どちらかと言えば未来志向な意思を表現できたと思っている。
(参照)VIの刷新について
周年を機に、というのは実は今回ブランディングをする際の2つの理由の1つであり、もう1つの理由は社内に向けて、でもあるのだ。私たちの仕事は今や平面から立体からデジタルまでと広範に及び、そのいずれもがクライアントのブランディングに関与している点、そのエンジンを担っている点は共通していると言えるが、広範ゆえに社内の共通言語としての自らのアイデンティティを明確にする必要があった。しかしながら、そうかな?と感じつつも、いずれ、という言い訳で後回しにしてきたのが実態だ。MBOをしたころから見ても会社の規模感は4~5倍へと成長し、仕事の幅や社員のスキルなども当時とは比べ物にならないくらいのレベルにはあるのだが、さらに未来に向けてワンランク上の企業を目指そうという意図もあり、いよいよ自社のブランディングと相成ったわけである。
ブランディングおよびアイデンティティの確立は従業員参加型のボトムアップと、主として経営層が決めていくトップダウンの2つに大別されるが、今回はそのどちらでもなく、ハイブリッド(半分社内半分社外の方々)なスタイルでのぞんだ。社外取締役を中心としてクリエイティブチームを組んでもらい、取締役という内なる理解に加え、「外から見た当社の姿」(より客観的な視座の意)という視点を取り入れたいと思ったためである。
なぜならそれは、自らの意思や想いは語りつつ、そこに重心を置き過ぎると成果物が変わり映えせず、クリエイティブジャンプに限界もあるだろうことが想定でき、あえてハイブリッドな方々の見方によって「これまでと違う」アウトプットができると思ったためである。
クライアントのビジョン、スローガン、新VIといったブランド・エレメントを作っていく過程をサポートしてきたが、自分たちのブランドがカタチになっていくのは、こういう気持ちになるのだと初めて知った。それは、照れくささと同時に、純粋に嬉しく誇らしい気持ちだ。言うまでもなく、ブランディングとはブランドの「ing」。エレメントを揃えてお終いではなく、ここからがスタートで、常にingでなければブランドはブランド足り得ず、それが織りなす世界観も醸成できない。まずは自分が率先して、照れずに斜に構えることなく、ブランドを体現しなければと思う。クライアントのブランディングを担う者として、従業員1人1人も共に自らのブランド体現者になってくれれば喜ばしい限りだ。
本格化するDXに寄せて
DXという言葉が世間に普及し始めて約3年。私たちは、この言葉をどこまで理解しているのだろうと思うことがあります。猫も杓子も、あらゆるセールストークも、TVのCMも、果ては地方創成もDX。さらにはGX、CX、SX、EXなど、この3年で多くの「〇X」が登場したわけですが、皆さんはどうですか?このうちいくつご存知でしょうか?私は大半が???が並ぶだけですので、答え合わせは「今さら聞けないシリーズ」に任せることにしましょう。
さて、話しをDXに戻しますDXという一言だけでも様々な定義や解釈があると思うのですが、その言葉の出現とともに一般的に普及したDXは、システムやインフラを指すそれではないでしょうか。それとは「人事DXの決定版」「経理のDXに乗り遅れるな」のようなものを指しますが、働き方が変わるのを機に産まれた多くのサービスなどが一番分かりやすい事例です。雨後の筍がごとく次々と現れる「DX」を冠したサービスや商品にやや食傷気味になりながら、果たしてDXって?と考えさせられることもあり、つまりはサービスやインフラを先行して導入したところで、本当に世のデジタル化は進むのか?と疑問に思ったものでした。もっとも、何を以てデジタル化が進んだかは人や企業それぞれなので、そこは大きなお世話なのですが、カタチから入る典型例のように見えたのも確かでした。
しかしそのDXも3年経つと、少々風向きというのか景色も変わってきたように感じる事象に触れることも増えてきました。それは、思考や発想のデジタル化というものです。2-3年前にカタチから入った感の強いDXも、それを使っている方たちから「xxxをベースにこんなことできないか?」とか「xxxはこんなことができるからやってみた」といったデジタル化を進める一歩を踏み出す「能動的なアクション」に変わってきたということです。使っているうちに自分たちで気付くことがあったり、やってみたら自分でできたり、と使う側の人間が「X」しつつあるということなのですが、使う側がデジタル的な発想や思考で、デジタルのインフラを使いこなすようになることがDXの本質だとすると、カタチから入ったDXもいよいよ本番に入ったのかも知れないと思うわけです。
しかしこれは我々のようなサービス提供側にすれば実は厄介な話しで、使う側の人間がデジタル化するというのは、情報が民主化することだけでなく、発想や技術さえも私たち企画する側、制作する側とを横並びにさせかねないことでもあります。場合によってはDXの進んだクライアント側からの問い掛けや一言にハッとさせられたりもして、私たちにとってもDXは他人事ではなく、安穏としていられない時代の大きな流れであると思わされます。半歩先を行き、クライアントをリードしていく立場として、私たちもDXの本質を見誤らず日々研鑽していこうと思う次第です。
新しい時代!?
昨年、当社で某団体会員様向けのクローズドなクルマ雑誌を発刊したのですが、それをきっかけに、クルマ関係に連なる方々(メーカー、販売会社、ジャーナリストなど)と知己を得、この歳にして新しい仕事ができたこと、仕事を通じて多くの学びがあったことはとても喜ばしいことでした。皆さまに感謝です。
そんな関係もあり、2月上旬に初めてJAIA(日本自動車輸入組合)が主催する試乗会に行ってきました。もちろん、懇意にしているジャーナリストに誘われて、ですが。
文字通りクルマは全て輸入車。例年この時期に3日間に亘って開催され、各社の一押しクルマが60台以上一斉に集まる、今年で42回を数える歴史あるイベントです。場所は大磯プリンスホテル。ここを起点に試乗時間は80分。箱根ターンパイクへの乗り入れが禁止されているほかは、ルートに決まりがあるわけでもなく、撮影に徹するもよし、とことん走るもよしで、何と言うのか自動車業界の懐の深さや自動車ファミリーの連帯感と信頼感のようなものが見え、コミュニケーションが希薄になりがちなこの時代に、久しぶりに心が暖かくなりました。さすが、成熟産業ですね。
大磯プリンスホテル駐車場
あれ?あの人は〇〇さんじゃない?この方は有名なユーチューバーだな?などと多くのモータージャーナリストと呼ばれる方々を横目に、その日は朝から夕方まで5台の試乗をしました。何よりも印象的なのは60台以上ある試乗車の大半がEVもしくはそれに類するクルマだということ。まあ当たり前と言えば当たり前ですが、実際に業界向けイベントにおいて、いやむしろプロ向けであればなおさら、新しいクルマの試乗イコールEVという図式が確立されつつあることを目の当たりにし、自分自身も考え直すきっかけになったのが正直なところです。もはや個人の残念な気持ちだとか内燃機関ノスタルジーなどはお構いなしに、世界は本当にそっちに、新しい時代に向けてひたすら突き進んでいるわけですが、特に欧州のクルマはそれが顕著で、その割り切り度合いは時代をリセットする潔ささえ感じ、あっぱれです。
そんな私たちも時代の流れに乗って2台のEVを試乗しました。ボルボとフィアット500のEVの2台で、ジャーナリストはフィアットに、私はボルボに感銘を受けました。クルマのインプレションなどはプロに任せるとして、私が感銘を受けたのは「EVにも個性がある」ということと、「技術の革新は凄まじいスピード」で進んでいるという点でしょうか。
短時間で複数台乗り比べることで分かることがあるのも確かで、「パワー一辺倒のEV」というステレオタイプな見方は、もはや最新のEVには当てはまらないということを知れたのは、大きな収穫でした。
個人的にはクルマについては超が付くコンサバで、ガソリン臭くて3ペダルが一番なのですが、用途による使い分けや、新しいプロダクトから学ぶ最新技術、これらを上手く取り入れないと気付けば使い方さえ覚束ない、取り残されてしまう人になるなと思った次第です。全てをリセットする必要も、捨て去る必要もないですが、食わず嫌いや過度な頑なさは邪魔であることは仕事にも通じることで、いろいろと思いを新たにさせられた1日でした。貴重な気付きをいただき、皆さまに感謝の一日でした。
VOLVO XC40 RECHARGE
FIAT 500e
2022年の振り返りと2023年の展望
みなさま新年あけましておめでとうございます。
旧年中は関係する皆様には格別なお引き立てをいただき、厚く御礼申し上げます。本年も皆様のお役に立てるよう尽力して参りますので、引き続きよろしくお願い致します。
2023年の最初のブログは、やはり2022年の1年間の振り返りと今年の展望という新年らしく、かつ自らの備忘録を兼ねて書こうと思います。
当然ながらできたこと、できなかったことがありました。去年の一番の変化は何よりも、社長という立場に変わったことが一番の変化でした。しかしながらいつかのブログに書いた通り、やることが大きく変わったかというとそうでもなく、もちろん社長としてやるべきことは増えたものの、既知の経験則という意味も含めて大変化というレベルではなかったような気がします。
そんな中でも社長として為すべき仕事の1つである、結果を残し会社を安定させるという点においては、達成できたと自己評価しています。当然ですが、これは従業員一人一人の躍動あってのことで、これは従業員みんなに感謝しています。もうひとつ、社内に対して仕事をする上でのマインドセットとして発信した「あえて難しい方の選択」をして仕事をするという点においては、自分ではどうだったか振り返ってみました。
自らに課した大きく2つについての1つは及第点。もうひとつは、もっとやれる余地があったかなと感じています。
前者については、新しい価値を創るということ、すなわち当社にとって初めての、自分たちによる、自分たちのメディアを創るということ。これは2年越しながら多くの人の協力を得ながら達成でき、感慨深く新しい発見ができた仕事でした。今後、さらに価値を付加させ育てて欲しいと願っています。
後者については、億劫がらずに人に会うということ、これについてはもっとできたはず、が正直なところです。営業電話の相手でも、自ら能動的に会いにいくケースでも、内容と回数においてはまだまだできたはずで、平時に自らを奮い立たせる術を身に付けなければと、改めて痛感しました。
これらを踏まえて今年、新たにどんな心持ちで2023年にのぞむかということですが、「あえて難しい方の選択」は、引き続き自分に対するマインドセットでもあるので継続したいと思います。具体的には、デジタルリテラシーという課題です。だいぶ漠然としているのは承知ですが、少なくともweb3.0時代の新しい技術やサービスの概念くらいは、どこかでキャッチアップしておかなければという思いです。
こうした技術を駆使している分野はまだ限定的だろうし、実験的な意味合いもまだ強いかも知れませんが、現代の技術革新と拡張スピードはデジタル時代ゆえに加速度的で、彼我のことと思っているとあっという間に身近で、それ無く成立しない社会がくるはずです。自分たちの仕事に対する影響も、きっと近い将来に影響を及ぼす決して他人事ではないと思いますので、今のうちに何とかしておきたいところです。
もう1つは、事業の継続性の担保。これは社長の仕事の最大かつ最優先の仕事で、こうした場で具体的に書けることは少ないのですが、前述したような将来を見据えること、そしてそれに必要なアクションなどを指しています。そこで求められる大事なことは時代の空気感を読むことや自社に対する冷静な客観性。そのためには極力現場の近くにいること、そして去年の積み残しでもある、億劫がらずに人に会うということを心に留めておきたいと思います。
多くの方々が今年は2022年よりも難しく、ネガティブな時代を予想していて、確かにその通りでVUCAな時代だと思います。そんな不確実で見通しの効きにくい時代にあるのかも知れませんが、私たちはどんな状況にあっても、企業や企業活動を営む人の想いを繋ぎ、カタチにすることで企業成長のエンジンを担うものでありたいと思います。こうした仕事に誇りを持ち、従業員一同楽しく新しいことに挑戦して参る所存ですので、今年も一年どうぞよろしくお願い申し上げます。
価値のある失敗!
仕事をしていれば誰もが経験するのが失敗やミス。失敗と一言で表しても、種類もレベルも様々ありますが、失敗によって得られる教訓は数知れず、この数だけ自分を成長させてくれると言っても過言ではありません。
そして、失敗を許容し、何度も挑戦できるフィールドや会社、その会社が醸し出す社風は、それ以上に大事だと思います。
なぜなら、こうしたモノコトが無い限り、失敗も起きないからです。
正確には、失敗したという事実が表面化せず裏に隠され、それによって失敗をした本人そして組織にとって教訓にならないからです。組織の大小に関わらず、失敗できる機会は無くしてはなりません。
冒頭で失敗には多くの種類やレベルがあると言いましたが、してよい失敗(あえてして欲しい失敗、とも言い換え可)と、避けなければならない失敗、というのがあると思います。
先に後者のことを言えば、クライアントの社名や担当者名を間違えるや、ウソや隠し事に起因するコミュニケーションロスといったこと。そして売上・仕入・請求といった営業的な数字のミス、公序良俗に反することなどがこれに当たると思いますが、これらは社会の一員としての基本的な素養があれば避けられる失敗で、できればここで躓かないで欲しいと思う類と言えます。
そして前者について。これは、未経験の仕事への取り組みや新しいチャレンジに伴う失敗を指しますが、「あえてして欲しい失敗」はこれに尽きると思うのです。
no pain, no gainというのか、やらない後悔よりやって後悔(これはちょっと違うか・・)というのか、自らの意思で一歩を踏み出した結果の失敗や、自分にとって容易ではない選択をして格闘した結果の失敗などは、本当に意味があると思うのです。アインシュタインも「今までに失敗を経験したことない人がいるとすれば、それは新しいことに挑戦したことのない人だ」と逆説的に説いていますが、挑戦や自らと格闘した結果の失敗には価値があるということです。
しかしこれがなかなか言うは易しで・・・。人は、自らを容易な方や慣れている方に走らせる習性(ある意味安定志向と言うのか・・・?)があり、意識をしなければ新しいと挑戦をするのが困難だということ。
さらには、不寛容な社会と言われる通り、失敗が許されず再起が難しい日本の企業文化によるものなど、新しいことへの第一歩を躊躇しがちな空気感というのがあるという背景。そしてもう1つ、失敗をした本人の上長にあたる人の対応、反応という方が正しいかも知れませんが、これも大きなハードルだと言えるのではないでしょうか。
上長は、「本人以外で最初に失敗の事実を知らされる人物」、ですがその最初の反応によって活きる失敗と活きない失敗に大別されると言っても過言じゃないかなと思います。上長としてまずはすぐに失敗に対処する、失敗した事実を隠蔽しないのを前提とすれば、ここでのポイントは失敗の本質は何だったのか?を探ること。それは何によって引き起こされたのか?を理解することが肝要で、感情的に責めたり犯人捜しをするようだと、この失敗した本人は以後、失敗したくないシンドロームに陥り“失敗をしなくなって”しまうでしょう。
不遜な言い方をすると、日本全体を覆う閉塞感やよく言われる「失われたxx年」などは、全てここに通じるものがあるのでは?と感じます。
失敗する、イコール責められる・怒られる・犯人にされる・背負わされる、といった連鎖があれば失敗を隠したくなるのも、また人ですよね。
チャレンジによる失敗に鷹揚で、再起可能なアメリカや中国は、功罪あれども当然ながらイノベーションが続出し、企業や社会のダイナミズムが産まれやすく、結果として国力にもつながっているのはここで言うまでもないことです。
そんなレベルではなく私たちができることは限られていますが、一民間企業の経営者としては、自分にとって難しく新しい挑戦を従業員に促し、その結果の失敗を許容し、失敗の教訓から新しいモノコトを産み出せる、そんな社風でありたいという想いを忘れずに、会社の運営を心掛けたいものです。